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お涙頂戴ものは好きじゃない

半数からは当たり前だろうと言われそうな、ごくごく平凡な感想ではあるのだけど、
今回アメリカのリメイク版ハチ公「HACHI」のレビューを見ていて再度強く思った。

彼は素晴らしい犬だ。だけどそれを手放しに「素晴らしい」というには気が引ける。
それが彼の幸せだからこそ、そういった行動に出たのだろうとは思うのだが、私からすると他のことをしたほうが、彼自身のためになり得たのではないだろうかと考えてしまう。
だからこそ観衆は涙するわけだが、私は映画で観た限りでは2時間も放送するほど説明を必要としたものに見えなかった。
なんというか、話を広めるには映画は絶好の機会だが、それは日本人観衆の思いであって、映画製作者のそれとは違うように感じた。



「余命1ヶ月の花嫁」「世界の中心で愛を叫ぶ」「1リットルの涙」等の余命わずかをコンセプトとした作品は好きじゃない。
例えば現在60を過ぎていて、残りわずか十数年の人生をお互いに充実したものにしましょうという夫婦映画ものなら好感が持てるし、病人である女の子とその彼氏の他に戦時中特攻隊として死んだ日本人幽霊を交えて死とは何かを考えるという映画も観たいと思った。

だけど上の3作品や、それに近いものは好きじゃない。
中身がない。「とりあえず死ぬから感動」というのが分からない。
親族で似た人を探せばいそうな気もするのに、私たちはぞろぞろと映画館へ赴き全く見知らぬ人のために涙を流す。

花嫁は見ていないからなんとも言えないけれど「愛を叫ぶ」では、
病弱であることを知りながら離島へ連れ出して発病させてしまい、余命わずかであることを知ると彼女の望む「世界の中心へ」周りの許諾なしに連れ出し、その「世界の中心」で彼女が死んでしまうと「誰か助けて下さい!」と叫ぶ。
なんのこっちゃねと。「若いな」としか思えない。自分の彼女が不治の病だったこと以外、他の人と何が違ったのだろう。

「1リットルの涙」も、悪いわけではなかったけど、反対に良い話でもなかった。
本当に普通だった。
病気だった。女の子が悲しんだ。彼女のお母さんも悲しんだ。可哀想。

それを「感動もの」として触れ回る売り手の態度が好きじゃない。
そんな「死んだ」「死ななかった」でしか表現できない読者への共感を求める姿勢なんてないほうがいい。


少年漫画でも、過去話になると誰かが死んで、主人公は死に追いやった直接の原因である敵を攻撃したりするが、あれも好きじゃない。
出てきたかと思うとすぐに死んでしまうので「ああ、主人公がいい奴なんだというアピールのためにこいつは抜擢されたんだ」としか思えず残念な気持ちになる。


もし「良いことをした人間」が素晴らしいと感じるのなら、私たちは素晴らしい人間の幸せを願うのが自然な感情だろう。だからこそ、結果死んでしまったことに対し私たちは悲しみを覚える。

3作品は少し違う。
「死んだ」からこそ彼らは素晴らしいのだ。
書いていて全く意味不明なお話だが、こと映画に関してはそれが顕著だ。
慎ましく生きてきた彼らが不幸に遭う。そこにドラマ性がある。
意識してか意識せずにかそれを利用しようとする人がいる。

私も例外ではないかもしれないが、それを匂わせるものは嫌いだ。
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