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「私は間違っていない」ことを終着点にして物事を考え始める。しかし、長く考えるときというのは大抵、「私が間違っている」ときなのだから、思考は延々と続く。(間違っていないときは、ぱっと「やってよかった」で終わる)解答の周りを螺旋階段のようにぐるぐると行ったりきたりはして苦しむ。

後から「お前は何も考えていない」と言われると、そんなはずはない、こんなに苦しんでいるのにといきりたつが、行動だけを見れば考えるだけで何もしていないのだから、傍から見れば何も考えていないのと同じで、そもそも「考える」というのが自己解決へ向けての思考を指して言っているのであって、自己弁護に費やした思考は「考えている」とは言わないのだ、ということに今更になって気がついた。それに、私はよく「考える」が、それはバグが多いか処理速度が遅くて時間のかかるプログラムと変わらないのだということにも。
私はこんなに苦しんでいる という状況を喜ぶ人間でもあるのだということにも気がついた。考えてみれば現状は苦しいわけだが、真に考える人間というのはそういった状況に陥るはめにはそもそもならない。

私はこれをブログに載せてしまうが、それは「それくらい分かっているんですよ!」という自己表明に他ならない。読んだ人間は呆れるだろう。呆れるだろうといったことは知識では分かっているはずなのだが、実際に読まれてどういった感情を抱かれるのか、もし私が人格者でありこれを読んだらどういった感情を抱くのか、実感として湧かない。この感覚の隔たりが私と多くのまともな人たちとの違いなのだろうと思う。
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