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映画/小説

読書感想文


昆虫にとってコンビニとは何か? (朝日選書)昆虫にとってコンビニとは何か? (朝日選書)
(2006/12)
高橋 敬一

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ユーモアがあるし、「昆虫視点で語られる自然」と「ヒトが考える自然」の違いはとても興味があるものだった。普通なら見向きされない話を(失礼)興味を持たれるような話とサンドしていて、自分の話を読んでもらえるように仕向けるのが上手い。

『虫だといくつかの例外があってもそれは統計で計られることがないが、これがマウスとなると難しい。こと人間となると..』といった話で、「人間を一つの種で括ると問題が起きやすい」という意見にそのとおりだなぁと感じ、読んでから暫くは穏やかな気持ちになれました。

これも読みました。

死の壁 (新潮新書)死の壁 (新潮新書)
(2004/04/16)
養老 孟司

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これは好きじゃない。
参考になるところもあるにはあるけれど、殆どエッセイなので憶測の域を出ない話に非常にムズ痒い思いをした。
特に話し方が好きじゃない。こう、おじさんが「俺の生き方」を語っているというか...学者というよりサラリーマンタイプの中年男性。「理屈じゃねーんだよ、体動かせ体!」って人。生活に役立つであろう意見は、学者よりサラリーマンタイプの人の話だろうけれど、私は好きじゃない。

あとは擬態する昆虫について書かれた本。タイトル忘れた。半分読んだ。

擬態の内容そのものよりも、そうなることの考察のほうが面白かった。
最初は紫外線対策で皮膚に色をつけていたのが、暫くして保護色としても活躍するようになり、そのうち毒をもった昆虫が肌の色で他の生き物から避けられるようになったので、他の種がそれを利用して擬態に使うようになった。
これらの行動が、虫が意思を持ってのものではなく淘汰の結果だということに驚き。どう世代を繰り返していけばああもそっくりになるのだろうと考えると奇跡のことのように思えて宇宙でも見ているような気持ちになる。

虫の多くは色を識別して生きていない。なのに自らの甲殻は捕食者から狙われ辛い色をしている。虫達はなにも「どうだ、まいったか」なんて思っていない。どうやって外を見ているのかと言えば「触覚に触れたものが何かを判断することで」というのだから、実際に見えている世界はかなり狭い。だから他の生き物が何故自分を襲ってこないのかを考えたこともなく、目の前で触れた葉に喜んで食いついている。だけ。そう思うととても奇妙な感じだ。
複眼の持ち主や、蝶や蜂などの花粉を必要とする昆虫は別。
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アブダラと空飛ぶ絨毯 2/2

中学生が読んでも楽しめるように創意工夫を凝らしたおとぎ話という感じだった。

冒険の要になりそうな精霊の魂探しは、意外とあっけなく終わってしまい肩透かしをくらった。
主人公とヒロインの仲は始めから運命づけられているので、そこに障害はないし、ヒロインを助けるための旅も精霊の手のひらの上で転がされていただけだったし、主人公の頑張りどころと言えば精霊の魂探しだろうかと考えたのだけど・・

D.W.Jの作品で好きだったのは、散りばめられた伏線を最後にひとところに回収してしまうところ。でも1巻も2巻も少しまとめすぎているように感じた。
「全く関係のないように見えた登場人物が、実は1巻で出ていたあの人だった!」という流れは懐かしさから楽しく読むことができたが、流石に4人もとなってくると、食傷気味になった。しかも4人とも伏線と呼べるものがなく、もっともらしいものと言えば魔法をかけられた理由くらいのもの。後から「実はこうこうで」と精霊が全部説明してくれる、後だしジャンケンのような作品だった。

ただ、締めに主人公とヒロインの新居の様子を描いたのは流石だと思った。作者は覚えていて当たり前だろうけど、私はすっかり旅の途中で思い描かれた主人公の空想について忘れていた。こういう、話にほころびを出さないように縫い目をしっかり閉じてくれるような作品作りは好きだ。

アブダラと空飛ぶ絨毯 1/2

「ハウルの動く城」シリーズの第2巻
今度はアラブでのおとぎ話を下地にした作品。
夢見がちな少年が空想した出来事がどんどん実現していくというファンタジー。
おとぎ話には冒険がつきもの。もちろん主人公も厄介事に巻き込まれていく。

というお話を大体1/3まで読んだ。が、さぁ冒険だというところになったら読む気がなくなってしまった。やっぱりファンタジーは苦手みたい。本当なら最後まで読んでから感想を書くべきだけど、今日は何か書きたかったのでこれについて書くことにした。

第1巻とは違い登場する町は1つだけだったのでサクサクいけたし、文章も以前よりこなれていて読みやすかった。
絨毯商人である主人公と客の売り文句の攻防戦は面白かった。職業柄、怒り心頭でも遠回しな嫌味で攻撃するのだが、流暢な語り文句を読んでいるとどんどん調子がついてきて、テンポよく読めて楽しい。それにこういうセリフって小気味良い。
主人公はやたら機転が利く。頭が良い。というか良すぎる。何度も練り直される小説だからこそできる芸当であって、現実でこれができる人はちょっといないだろうと思いながらも主人公の着眼点に驚いてしまう。この前もそうだったが、児童書から発見することが多い私って・・何歳だっけ

魔法使いハウルと火の悪魔 2/2

最後まで読んだ。
やはりあの年頃の女の子が読んで楽しめる作品だと感じた。
ハウルは随分な性格の描かれようで始まるので男の子はムッとするかもしれない。
ファンタジーや戦いのシーンはちっとも興味が持てなかった。昔は専らファンタジーの作品を読んでいたのだけど。やっぱり年のせいか。

ハウルとソフィーの性格の描かれ様と、読者がそれを読んでいてどう感じているのかよく分かっているかのような描写に驚き感心した。
ソフィーは、ハウルはなんて嫌な奴なんだろうと思っている。実際、いろいろと困った性格の人だ。
ハウルはソフィーをすっかり嫌がって嫌味を言うものの、弟子のマイケルには信頼を置いている。この両者の違いはなんだろうと考えたときに、マイケルは素直に喜びを示す子で、反対にソフィーはなにかしてもらっても鼻を鳴らしていたりキツい言葉で追い立ていたりするからだと気がついた。その辺りからソフィーの嫌な性格にも触れられ始める。「読者もそろそろ同じように思うだろう」と筆者が考えての、この展開だとしたら凄い。

「ハウルは悪いやつじゃないんです。嫌なやつだけど、悪い魔法は使ったことを見たことがない」
このセリフを口にしたソフィーが自身の言葉にハッとさせられたときに、私もハッとさせられた。
確かにそうだ。性格にばかり目を奪われていたけど、やっていること自体は親切だった。
とは言っても、特別なことをしたわけでもない・・と考えている辺り私が未熟なんだろう。

最後の「あのときの可愛い子じゃないか」というハウルのセリフに「ん?」と思った。
自分は現実から逃げているんだということを認めたし、憎まれ口を叩きながらもソフィーのために骨を折ったことを説明はしたが・・「かわいこちゃん」はさっさか素直に言えてしまうのだから何にも変わっていないじゃないかと悪態をつきたくなった。
でも考えてみたら「生まれつきを有り難るなんて理解できない」というハウルのセリフに「私はこの人のことを結局分かっていなかったんだ」と主人公が感想を述べているのだから、きっとハウルはいつものハウルでいいんだ。ちょっと変わってはいるけど、この人はこの人なんだ。

ハウルは気まぐれな人間だったけど根っこのところは善人だったし、ソフィーは面倒見の良い子ではあったけれど、自分の意見を押し付けてしまう強引な性格だった。
作者はどう言いたかったのかは分からないが、今回は「第一印象にとらわれずに接してみましょう」というメッセージとして読んだ。
ただ、こういう「実は」という要素は話作りにおいて欠かせない点であるから作者はそう意図して書いたわけではないのかもしれない。もう一度始めから読みなおせば分かってくることもあるかもしれないけれど、オチの分かっている作品は二度読みたくない。
ファンタジーは興味の範疇になかったので、好きな人にはそちらのほうが魅力的に映ったかもしれないけれど、私には2人の性格のほうに興味を示した。

もう少し文字数を増やしてほしいと思ったが、児童小説にそんな期待ができるわけもなし。
戦闘シーンの描写は、意外と苦手なんじゃないのか..興味を持てない分野だったので読み取ろうとしなかったのかもしれないが。
風景の描写では時折暖かい風が頬に触れるような感覚を覚えたので「オーディオで音の生っぽさを求める人は小説を読んだらいいんじゃないのかしら、コスパも良いし」なんて思った。

魔法使いハウルと火の悪魔 1/2

「ハウルの動く城」の感想を書くにあたって、実際の原作と違うことを書いていては問題かもしれないし、興味も湧いてきたので原作を近所の図書館から借りて読んでみた。とは言っても、最後まで読んでいない。途中を少し過ぎたところまで。
私は一度読んだ本は2度と読もうとしない。だって、オチの分かっているものを読んだってちっとも面白くない。だから今回も半ば義務のようにして読んだ。

やはり小学高学年以上を対象とした作品だからか、文体は作文のようになっており毎度毎度「〜でした。〜です。」と区切られテンポ良く読めなかった。それに、私は大人(笑)なのだから、もう少し難しい表現でも使ってもらえれば妙な満足感も得られるのにとつまらないことを考えながら読み進めた。

私は、よく地の文を飛ばしていた。だから作者が何を伝えたいのかさっぱり分からないままに、それどころか間違った解釈の仕方をしてしまうことがしばしばあった。
今度こそはしっかり読もうと一文一文を舐めるようにして読み始めたわけだが、これも困ったことに小説だけでは伝えきれないところがあり、特に家の間取りについては非常に苦労した。
「理系」と呼ばれる人たちはこういった手の疑問が生じる小説は苦手としそうだなと考えながら、結局地の文までしっかり読んでいると、主人公たちの動きがゆったりして、まるでテレビをスローモーションで見るかのような不自然さを感じてしまうので、そこそこにして読むことにした。やはりテンポ良く読んだ方がいい。

やたらと長くなってしまったので、後は簡単に書く。
映画は全く違う作品のように思えたが、登場人物の役割をひとつにまとめてしまったり、それで欠けた部分のせいで行動する理由が意味不明なものになってしまってはいたが、話の筋はそう間違いではなかった。
ただ、荒れ地の魔女が本当は城の階段を登らずに、ソフィーが登っている様子を見ているだけだったのが、映画では一緒に汗だくになって登り、謁見の際には電気ショックを喰らって全く恐るるに足らない存在になってしまったのは改悪だった。記憶が間違いでなければ、最後にハウルが闘う相手は荒れ地の魔女だ。なのに、映画では荒れ地の魔女を簡単に追いやってしまい、後は「世の中の戦争」として兵器を町に投入しだす。
「愛と平和」を唱える映画になってしまい、何がなんやら。